体の もともとの チカラを 活かす              
 
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        ■ どんな整体? ■



整体法(野口整体)のスタート地点。

整体法(野口整体)は、わかりにくい。

「ゆがみ」とは?

病気や症状をどうとらえ、どう扱うのか?

いかにして、自然治癒力を引き出すのか?

「個人指導」の意味。

「整体」の本来の意味。

何をめざしているのか?




整体法(野口整体)のスタート地点

整体法(野口整体)では、基本的に、人の体という生体そのものを信頼するところに立っています。

そのお体に何かが足りない、どこかが悪い、弱い、よくない、とは考えません。そのお体をよりよくするチカラは、どなたでも十全に備わっていると考えます。

人のからだというものを全面的に信用する姿勢が、スタート地点です。発想の源であり、考え方の根幹であり、すべての技術の根底にあるものです。

仮に、ご病気や何か症状があったとしても、それは何らかの理由でその病気や症状を「いま」必要としているから、生じていると考えます。ですから、その必要性がなくなれば、病気や症状は自ずと消失すると考えます。

そのためには、ご本人の元気を引き出すこと、生命力を高めること、自然治癒力をより発動させることが、何よりも重要と考えます。最優先の課題とします。もともとある、からだの内在的なチカラが出てくれば、体はみずから勝手に治っていく、と考えます。

整体指導者は、精緻にそのおからだを把握した上で、そのとき最も適切なことをおこない、生命力を高める方向へ導きます。もともとあるチカラを引き出す、「呼び水」の役割を果たし、経過を見守ります。



整体法(野口整体)は、わかりにくい。

どういう整体なのか?どういう効果があるものなのか?をお伝えするのが、大変むつかしいです。「・・・・ではない」ということはできるのですが、一言で「・・・・である」と表現するのが容易ではありません。誤解のないように、正しく理解していただくのに、苦慮することが多いです。

「自然治癒力を高めるもの」というのが、まぁ、妥当なところなんですが、でも、それってあまりにも抽象的過ぎてピンとこないようです。私にどう効果があるの?という点で大変わかりにくい、みたいです。特にご病気や症状がおありになる方にとっては、何よりもまず自分がよくなるかどうかが一番の関心事なので(おつらいですから当然なのですが)、自然治癒力みたいな、雲をつかむような話をされても、となるようです。

なにがどうわかりにくいかを、お伝えすることで、少しは全体像が見えてくるかもしれないとも思います。よろしかったら、おつきあいください。

実は、整体法は、その概念も、考え方も、大切にしていることも、施術のしかたも、一般的なものとはかなり異なっています。一種独特といいますか、一風変わっているといいますか、いうなれば、非常識的なところがあります。

まず、整体法というと、その「整体」というネーミングから、肩コリなど筋肉系のことや骨の矯正が、主な仕事と誤解されます。

整体法では、例え肩コリなどであっても、そのコッた筋肉を揉みほぐすようなことはしません。骨盤のゆがみであっても、その骨盤のゆがみだけを、正そうとすることはしません。肩がコルことになった背景、骨盤がゆがむことになった、その背景を、紐解いていきます。

「からだ全体の中での症状」という観点を大切にしています。

気の流れを整えるといえば、「気功なのか?」といわれます。
気というエネルギーを使う点では、気功的な要素もあるとはいえますが、いわゆる気功そのものをしているわけではありません。

整体法では、気の集注のことを愉気(ゆき)といいます。愉気は、すべての整体法の根幹にあるものです。施術の最初に観察する際も気を用いています。からだの「つかえ」や「かたより」を整えるために、どこをどう抑えるときも、気を用いているといえます。

整体法での気は、相手の体をとことん信頼しているところから発せられます。よくないから治そうとか、足りないものを補おうという意図は持ちません。治そう、あるいは、補おうというのは、相手のチカラを信頼していないと考えます。

余計なことを思わずに、よく晴れた気持ちのいい空のような気が最上とされます。「天心(てんしん)」~天のこころのような気~、といわれています。

また、ある方に「内臓疾患には効果はないですよね?」とおそるおそる聞かれたこともあります。効果がないことを確認するような質問だなと思いました。やはり、筋肉系骨格系のことのみ役立つと誤解されやすいようです。

整体法は、自然治癒力を高める施術ですので、内臓の不調としてあらわれている症状にも有効です。
体の内部の問題も、体の表面に「つかえ」や「かたより」といった形で現れますから、それらを子細に観察し、気を集注して使うことによって、からだの内側にまで及ばせることができるからです。

整体法には、明確な「型」があります。クライアントのおからだに対しての座り方、位置、姿勢、指の使い方、持ち方、抑え方、抑える角度、気の加減(強く鋭くするか、やわらかくふわっとするかなど)も、細かく決まっています。何をどうすれば効果的なのかを実証し体系化したものです。それらの技術により、からだの深部にまで、浸透させることができるのです。

また、「どういうことに効果があるものなのか?」とも聞かれます。「自然治癒力を高めるものなので、不適応なことはないくらいです。症状があっても、仮になくても、有効です。」・・と答えますと、症状がなくても受けていい、誰にでもいいものということは、何か明確な病気や症状でおつらい方にとっては、物足りなく感じてしまうようです。それならば逆にあまり効果のないようなもの、と聞こえてしまうようです。いえ、実際のところ、ほんとうのことを申しあげているのですが、むつかしいですね。「こういうことに効果がある」といった方が、特効がある、専門性を感じるということなんだとは思うのですが。

少しは、整体法の、わかりにくさをわかっていただけましたでしょうか。



「ゆがみ」とは?

よく、クライアントの方からお聞きするのは、「背骨がゆがんでいる」、「左右の足の長さが違うからゆがんでいる」といった言葉です。

さて、ゆがみ、とは何でしょう。
その、ゆがみ、という言葉には、いかにも「よくないもの」という印象があります。
背骨は真っ直ぐでなければならない、左右は揃っていなければならないもの、と思われているようです。

整体法では、ゆがみは、単にわるいものとは扱いません。
例えば、背骨のゆがみを気にする方は多いのですが、実は多く人はその死とともに、背骨は真っ直ぐになります。ですから、いってみれば、ゆがんでいるのは生きている証ともいえることなのです。

問題は、そのゆがみが、その人の生命力を妨げるものかどうか?ということです。どういった種類のゆがみか、そのことが肝要と考えます。



病気や症状をどうとらえ、どう扱うのか?

整体法では、さまざまな「つかえ」や「かたより」が、からだの内側(臓器機能、血液循環、神経系統など)に影響を与えて、いろいろな「病気」になると、考えます。

病気や症状があったとしても、そのことだけをもって、からだの敵とはみなしません。悪者扱いしません。人はどこか弱かったり悪いから、病気になったり症状が生じるとは考えていません。むしろ、より健康になるために、より丈夫になるために、その過程として生じることの方がずっと多いととらえています。

からだ全体が、何らかの理由で、その病気や症状をいまは必要としているから生じていると、とらえます。いま何か必要性があって生じているものならば、その必要性をなくしていけば、病気や症状そのものは消失していく、と考えます。

その必要となった背景を観て、ほどいていこうとします。流れをよくするともいえます。その病気や症状を持つことになった経過を、逆にたどるようにして、回復に導くことを考えます。例えば、もともとの原因がAとして、その影響がBに及び、今Cという症状になっている、とします。これを図式化すると、A→B→Cとなります。整体法では、C→B→Aと、ご本人のからだのチカラで回復するように、導くことが多いです。

病気や症状は、体の状態を知らせてくれる重要なサインであり大切なのですが、あまりにそこに着目しすぎても、うまくいかないことがあります。症状を抑えることばかりをしてしまうと、問題が内攻化することもあります。根本的な解決にならずに、他にまた問題を作ってしまうことにもなりかねません。



いかにして、自然治癒力を引き出すのか?

自然治癒力・・・いい古された言葉かもしれまん。
でも、この言葉を語るしかありません。このすごさを伝えるしかありません。

病気や症状でおつらい方は、なかなか、ご自分に自然治癒力が備わっているとは思いにくいようです。あるといわれても、実感できないようです。でも、この自然治癒力というものは、誰にでも備わっていて、生きている限り、失いようのないものです。

薬など外部の力に依存してしまうと、自分が本来持っている力を高めることはできません。外側からあまりにかまいすぎると、衰えます。
整体法では、いかにして、自然治癒力を発動させるか?、ご本人の生命力を高めるか?を優先第一のことと、考えています。

整体法の技術は、すべて、自己治癒力を高めることを目的としています。

また、どんな病気であれ、どんな症状であれ、人は、自然治癒力によって
しか治らない、のです。



「個人指導」の意味。

整体法では、「治療」という言葉は使いません。いわゆる、整体の施術を受けることは、「個人指導」と呼びます。一般的な概念とはかなり異なるために、誤解されることが多いです。何か講座的なことを期待されたり、注釈説明が必要になることがあります。

しかし、まぎらわしく分かりにくいからといって、この呼び方を変えるわけにはいかないのです。「個人指導」という呼び方は、整体法の考え方の根幹を現していると思うからです。

整体法では、施術者が一方的に、治すのではありません。「治し屋」にはなってはいけないとされます。治してもらったからだは弱くなります。また何かがあったら、治してもらう必要のあるからだとなってしまいます。しかし、自分のからだの力で治ったからだは、より健康になります。変調や変化にも柔軟に対応しやすくなります。自らのからだの力で乗り超えやすくなります。

治療は、病気や症状を相手にしています。
整体法が相手にしているのは、からだ全体です。その人の生命力そのものです。そして、からだの自然さを取り戻そうとするものです。

何かいま病気や症状があるならば、その病気や症状をむしろ活用して、からだ全体がより健康になるきっかけにしていけるように、考えます。病気や症状がおありになる方は、それがとにかく治ればいいとは考えますが、病気や症状が出る前よりもさらに健康に、とは考えないようです。病気以前より、症状以前より、もっと健康になることができる、というのが整体法の考え方です。

また、からだは実は、とても個人差が大きいものです。個性というと、性格のことだけを思われるかもしれませんが、からだにも個性があります。その個性を見ずして、病気や症状だけを追いかけても、からだ全体を活かすことにはなりません。

椎骨の数はみなだいたい同じですが、その表情は実にさまざまです。その大小や凹凸は異なりし、椎骨そのものからの印象も違います。例えば、胸椎3番4番が飛び出している方は、呼吸系に問題が出やすいです。飛び出していることで、独特の姿勢、歩き方にもなります。からだに力が入り、緊張感が絶えず抜けにくいからだとなります。3番4番を整えていくと、背筋が伸びからだもゆるめるようになります。からだ全体が変わっていきます。そうして、病気と思われた症状も治っていくのです。また、器質的な違いもあります。無意識的なからだの使い方・癖も影響しています。

その人をよりよくするチカラは備わっている。自然治癒力はもともとある
もの、というのがまず大前提としてあります。
自然治癒力を十全と持つ、その「個人」を、より治癒力が発動するように
導く、「指導」する、これが、「個人指導」の意味合いです。

自然治癒力はある、だからそれが発動するように導けばいい、という考え方です。
治癒力が発揮されれば、からだは勝手に治っていくと、考えます。

ですから、病気が治ったとしたら、症状が消失したとしたら、あるいは、おからだが何らかの意味でいい方向に変化したとしたら、施術者が何かをおこなったのではありません。変えたのではありません。その方のからだそのものが、おこなったことです。
このことは忘れてはならないと思います。



「整体」の本来の意味。

さて、「整体法」の中での、「整体」とはどういう意味なのでしょうか?

整体といいますと、一般名詞のようになっています。からだの施術方法の
ひとつと、とらえられていることが多いと思います。
つまり、誰かが自分の「体を整えてくれる」ことを、整体と受け取ってい
るのかなと思います。

しかし、整体法の中での、整体の意味は異なります。

自分のからだの力で、自分のからだを「整えることのできる体」、これを「整体」ととらえています。何か変動があっても、ちょっとした異常を感じることができ、自らのからだの力で自然に経過できる、整えることのできる体、のことです。

わかりにくいかもしれませんが、整体操法の目的は、「整体」になることそのものといえます。



何をめざしているのか?

からだの施術というと、何か病気なり症状があってのことと、思われる方が多いようです。

しかし、整体法がめざしているのは、いわゆる治療的側面のみにとどまりません。「治った、よかった」だけにしてしまっては、実にもったいないところがあります。

その方が何を望んでいらっしゃるのかにもよりますが、未病予防という側面があります。日々無意識に無自覚にかたよって使っていたり、どこかにつかえが生じていたり、知らず知らずにたまっていた疲労、季節的な変動などを微細に調整することによって、未病の予防につながります。異常に達する前に、調整していくことが可能です。

いってみれば、 病気や症状を必要としない、からだ作りです。何か問題が発生しても、自らのチカラで調整することのできる、からだ育てです。

いくつになっても、その人らしさを十全に発揮し、いのちある限り、いきいき愉しくハツラツと生ききることこそが、目的です。



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